社会に貢献できる人になりたい(タイの元奨学生)
・ダルニー奨学金を受けていた年と住んでいた地域:1995年~1997年 タイ ブリーラム県
・現職:ボイストレーナー
・最終学歴:ナコーンラーチャシーマー・ラーチャパット大学 人文社会科学部にてタイ語の学位を取得
ご支援をいただいていた中学生の時、警察官だった父は私が6歳の時に亡くなり、私は母と姉の3人で暮らしていました。現在、母も姉も結婚しそれぞれに所帯を持っていますが、私はバンコクで一人暮らしをしています。
小学生の時は、家の収入は母が別の県でベビーシッターとして働く収入だけで月収は6,000~8,000バーツ(日本円で21,000~24,000円)でした。姉と私は、祖父母と暮らしていたのですが、その頃は何度も借家を変わりました。きっと、少しでも家賃の安いところを探していたのでしょう。私自身、家が貧乏であることがわかっていたのでなるべくお金を使わないようにつつましく暮らしていました。
ダルニー奨学生だったころのパンロップさん
母は女手一つで私と姉を育てるため、寝る間も惜しんで働いていました。預けられた先である祖父母の家庭も貧しかったのでお金がないことには慣れていました。
小さい時は、マンゴージャムでコーティングされたバナナを友達に売って生活費を稼いだのです。そして、作文や絵などのコンテストには賞金を獲得するために何でも応募しました。そして、ダルニー奨学金の申請ができるように一生懸命勉強もしました。
そして、先生から私が「ダルニー奨学金を受けとることができる」と聞いたときは、本当に嬉しかったです。家族に迷惑をかけなくても、教科書、学用品、お昼ごはんが買えるのですから。
私はとてもよく勉強しました。遠い日本で私を応援してくれている支援者の方がいらっしゃると思うと自然と勇気が湧いてきました。そして、この思いは、今でも私の人生を支えています。
私が奨学金をいただいていた時、タイ ブリーラム県の中学校に通っていました。その後、近くの高校に通うことができ、科学・数学コースに進みました。
高校に進学した理由はどうしても大学に行きたかったからなのです。高校の時は、タイ語、英語、科学、英語、バトミントン、ペタンク、ジグソーパズル、歌等のコンテストで学校の代表として選ばれていました。そして100をも超える賞状やトロフィーをもらいました。
歌のコンテスト
コンテスト後、お母さんと
高校に行っている時も相変わらず家は貧しく、平日は学校へ行くかたわら物を売るなどしては働いて現金収入を得られたので、土曜日と日曜日は読書や宿題をすることができました。
その後、ナコーンラーチャシーマー・ラーチャパット大学に進学し、人文社会科学部を首席で卒業し、タイ語の学位を取得しました。卒業後の職業は、ナコーン ラチャシーマー大学で教鞭をとり、タイ語を教え、テレビ番組の司会、ラジオのパーソナリティーも務め、その活動が、新聞やテレビ番組に取り上げられたこともあります。現在は、ボイストレーナー、副業として大学で水彩画の講座を持っています。
大学で音楽を教える
子どもにピアノを教える
改めまして、中学校の時に私を支援してくださった日本の方に心からお礼を申し上げあげます。あの経済的に苦しい時に支援をして下さったから、私はチャンスをつかみ大人になって好きな仕事に就くことができました。私は、社会に貢献できるよう、これからも頑張って生きていきます。今後も、経済的に恵まれない子どもたちにお心を寄せていただきます様お願いいたします。
今、ダルニー奨学金をもらっている生徒たちへ。頑張って勉強して、社会に対しても貢献してください。そうすることによって、あなたに与えられた奨学金が価値を持つのです。
これからも新しいことに取り組み、まじめに働き、世の中のためを考えて生きていきます。最近は毎年、絵をかいて売り、そのお金をKeep Girls Safe Projectへタイの地方の経済的に恵まれない子どもたちの支援のために寄付しています。今年からは、他の子どもたちも支援したいのでJuvenile detention centerへの寄付も開始しようと思います。