現地スタッフ紹介 Part15【ラオス事業所所長:カムヒアン】
メコン5ヵ国にある、EDF*(Education Development Foundation)の各国事業所。
そこで働く私たちの大切な仲間であり、皆様からいただいたご支援を、心をこめて子どもたちに届けてくれる現地のスタッフを紹介しています。
今回は日本へ留学経験もあるEDF-Lao(ラオス事業所)の所長、カムヒアンを紹介します。
私の名前はカムヒアン インサバです。2006年よりマネージングディレクターとしてEDF-Lao(ラオス事業所)で働いています。
私が日本と関わることになったきっかけは、2004年に奨学金を受け、新潟県で学ぶ機会を得たことでした。もう20年ほど前の話ですが、日本での生活はどの瞬間も鮮明に覚えており、驚くほど素敵な思い出として心に残っています。ここでは語り尽くせませんが、日本で過ごした2年間で一番素晴らしい思い出は、日本の人々との出会いでした。2004年冬に体験した新潟県中越地震の際、周りの人々にとても助けられ、またお互い助け合うことができました。そして、寝る間も惜しんで、一生懸命昼も夜も勉強し続けました。また、地域の行事にも参加でき、とても楽しかったことを覚えています。
日本での生活の終わりごろ、私は情熱的でビジョンを持った方に出会いました。それが、民際センターの設立者である現在の秋尾晃正理事でした。その時、ラオスの状況や事業の運営に関して議論し、初めてラオスの子どもたちによりよい教育が必要だということに気付きました。2006年のことでした。私にとって難しい決断ではありましたが、健康上のこともあり帰国することに決め、民際センターのEDF-Laoで教育支援に取り組むことになりました。
私はとても幸運な人間だと思っています。幼少期に貧しさを感じたことはなかったですし、家事なの手伝いはもちろんしましたが、友だちと楽しく遊びまわり、学校にも通えていました。振り返れば、子どもが不自由なく暮らせるように、両親が一生懸命働いてくれていました。私の両親は学校に通ったことはなかったのですが、読み書きを一生懸命独学で学んでいました。両親が署名するために、ペンの持ち方から熱心に学んでいた姿を今でも私は覚えています。両親はいつも私に、“あなたはしっかり学びなさい。私たちは学校に行けなかったのだから。”と言っていました。
また、戦争(インドシナ戦争・ベトナム戦争)後、教育費は無料で、私が医学部を卒業するまでの学費は高くなく、穏やかな学生生活を過ごせたことも、幸運なことでした。しかし、その後国の経済は一変し、貧富の差が大きくなりました。教育は全ての人のためにあるべきものですが、教育費が高くなっていきました。多くの子どもたちは、家計を助けるために中途退学するという選択をせねばならず、教育がもたらす素晴らしい未来に希望を抱いて学び続けることができません。私たちは、この「貧困の連鎖」を断ち切りたいと願っています。
日本の支援者の皆様に心より感謝申し上げます。皆様のご支援により、1997年からEDF-Laoはラオスで子どもたちの教育支援に携わることができています。全てのラオスの人々を助けることはできませんが、私たちは取り残された人たち、貧困の中にいるより多くの人々に手を差し伸べていきたいと願っています。引き続き、ご支援いただければと思います。
「ダルニー奨学金」は、ドナー1人につき1人の子どもを支援し、子どもには誰が支援してくれているのかを伝える、顔が見える、成長が見守れる、1対1の国際里親制度の教育支援システムです。1日当たり40円、月々1,200円、年間14,400円の支援で、子どもが1年間学校に通うことができます。